新年あけましておめでとうございます。
すっかりホラーとBLの映画の話しかしない偏りブログと化しておりました。無念。
今年はもっといろんな映画その他を摂取したいと思っておりますので、お付き合いくださいますと幸いです。
ですが主張したいことはいつでもひとつ。真実のようにいつもひとつ。
( ・ω・)<ホラーはいいぞ。
さて2021年一発目は、密室劇・リーガルドラマの金字塔、
『十二人の怒れる男(1957年版)』の話をします。
レンタルで観ました。
どれだけ配信が発展し、自分の生活と密接になっても、レンタルビデオ屋さんに行った時のワクワク感、触れて選べる楽しさは失いたくないなぁ、と思うもののひとつです。
1957年制作、アメリカの密室劇型リーガルドラマです。
※全力ネタバレです。
【あらすじ】
とあるスラム街に住む18歳の少年が、父親殺しの罪に問われた。陪審員に選ばれた12人の男に、少年の行く末は任される。
会議が終わる条件は評決一致。
しかし、少年が『有罪』か『無罪』が投票で問うたところ、たった一人、少年の無罪を主張する男がいた。
【ひとこと感想】
本当に罪を犯したのかどうかは、この物語に限っては重要ではなかった。
【3つのポイント】
①白黒なのに情報が多い。
②理路整然と、重箱の隅をつく。
③最後の『有罪』派が見たもの。
【①白黒なのに情報が多い】
白黒映画は不慣れな身で、ちゃんと集中できるかなと不安でしたが杞憂でした。
思ったより情報が多い。登場人物が着ているシャツのシミで「暑い」が伝わってきて、籠もった空気の重さも感じます。
偏見ダメだな、と反省自省。
【②理路整然と、重箱の隅をつく】
爽快だったのが、少年が有罪とされた証拠の数々を、唯一無罪を主張する陪審員8番の男、『建築家』がひとつずつ崩していく展開です。
①凶器のナイフは本当に1本しかないのか?
(凶器と同じナイフを取り出し、ダンッと音を立ててテーブルに突き刺す場面。メリハリが効いてました)
②目撃者と証言者の言葉が、本当に信用に足るのか?
(状況をよく洗うと……ってやつです。この辺りを追求しなかった少年の弁護士、ガチで職務怠慢で怖い)
鉄壁の要塞のごとく積み上げられた証拠が、ひとつずつ崩れていく。
それに伴い、陪審員たちが少年の無罪に傾いていく展開は「おお……」と唸りました。
特に印象的な台詞をふたつ。
頑なに有罪意見に固執していた男(たぶん3番の『会社経営者』)が言った、
「あの耄碌じいさんに何が分かる!」
この『耄碌じいさん』は証言者のことです。
売り言葉に買い言葉で、証拠とする証言者を「信用ならない」と言い切る……少々語弊がありますが、スカッとしました。
さらにもうひとつ。
有罪派が、滔々と反論し続ける『建築家』につかみかかった場面。
「離せ、殺してやる」
「殺す気はないだろ?」
これもスカッと(概念)しました。
少年を有罪とする証拠のひとつに、『父親に「殺してやる」と言ったこと』が挙げられていた。
「殺すと告げること」と「殺す」はまったく違うのだと人類皆忘れがちなんですよね。
【③最後の有罪派が見たもの】
とうとう3番・『会社経営者』が最後の有罪派になりました。
彼は意見を譲らず、デッドヒートして感情を吐露します。
「ドラ息子め、この親不孝が!」
理性ではなく『感情』を、です。この直後、彼は「not guilty」と言葉を落とします。
この時、『会社経営者』は何を見たのだろうか。
自分の中にあるものに気づいたのだろうか。
スラム街に住む人間への偏見。
何より、自らの息子への不満、呪う(不満や憎しみや悔しさや悲しみをごちゃ混ぜにして恨むに近い感情)気持ち。
まったくの赤の他人である少年に、それを重ねていた……そんな自分自身を見つけたのでは、と思いました。
【まとめ:ずっと勘違いしていた】
この物語の主題は、犯行の真実を追い求めることではなかった。
少年が殺人犯かどうかよりも、真っ当に裁判は行われていたかどうか。
それを追い求める作品でした。
『弁護士になるには』(資料にめっちゃ便利なシリーズ)で読んだ一文を思い出しました。
以下引用です。(一部変えてます)
裁判官は神ではない。
法律と証拠によって、「(その事実)があったと推認できる」と判断するほかない。
ですが印象としては、数の暴力で始まり、数の暴力で終わった気もします。
何が正しいのか。真実はどこにあるのか。
そんなモヤッとした気分を少し残しつつ、雨上がりの空が最後に映ったのが、なにやらとても心に残りました。
というわけで一発目から重めのドラマでした。
また裁判の傍聴に行きたいなぁと思います。なんやかんやで去年は一度も行っていない。(仕方ない)